「学校の常識は,世間の非常識」と言うが,これもまた,世間の非常識の一つかもしれない。
さて,何を言いたいのかというと,小・中・高等学校で行われている「学校研究」というやつで使われる用語「仮説」についてである。
その前にまず,「学校研究」とは何か?ということについて,説明しておかなくてはならない。この用語「学校研究」を使うときに,いつも思い出すのが,金沢市の前教育長 石原多賀子さんが言っていた言葉である。
「『学校研究』って何なんでしょうね?一般の人や,保護者に言ってもちっともわかりませんよ。」
うーん,確かにそうだなあ。まあ,業界用語というのは,そもそも,一般の人に言ってもわからない用語だしなあ。それでも,自分のところの教育長がおっしゃる言葉だしなあ。保護者には何のことやら,ピンとこないかもしれないなあ。
「『学校研究』というのは,学校『が』研究するんですか,学校『で』研究するんですか,学校『を』研究するんですか。『××研究』と言ったって,いろいろな意味がありますからね。」
そう目の前で言われると,確かに,「××研究」という用語の曖昧さに気がつくのだった。
さて,そのような「学校研究」なのであるが,ここでは「学校研究」とは「小・中・高等学校で,その教職員が行っている業務(校務を含み,主に授業および授業力の向上)に関する研究」という意味で使うことにしよう。まあ,この定義がいいのか悪いのかはわからないし,できるだけ端的に言おうとしたらこんなのものかということで,書いている。一応「校務」は学校教育法にもある法律用語である。
ちなみに,日本の小・中・高等学校でこの「学校研究」をやっていない学校はほとんどないだろう。高校はよく知らないが,小中学校では必ず行われている。そのまとめは「研究紀要」として,どの学校でもたいてい1年に1冊,研究してきた証としてまとめられているはずだ。そして,その「学校研究」のなかでも,「授業研究」あるいは「研究授業」は日本という国の伝統らしい。教師集団がプロとして,自分の中心の業務である授業について,その授業力を向上させるための「授業研究」を行い,それについて議論するのは,日本では当たり前だが,欧米ではあまりないらしいのだ。(これについては,いつ話を聞いたか忘れたが,アメリカで日本の研究授業の素晴らしさを述べた本があったらしい。)
さて,ではその「学校研究」の「仮説」についてだが,この「仮説」というのが,はやりだしたのは一体いつ頃のことなのだろうか?少なくとも自分が教員になった頃の1980年代にはそれはなかった。
だが,いつの間にか,一体どこからか「学校研究」に「仮説」とやらが登場したのである。
そして,その登場と共に,自分は違和感を感じていた。
これもまた,印象に残っている出来事がある。
自分が医王山中学校に勤務していたときである。1990年代前半である。そのとき,全国へき地教育研究大会を金沢で開催した。医王山中学校も会場校であり,発表することになっていた。そして,自分は研究を担当していたので,その準備をしていた。そんな中,職員会議で研究を進めるときに,話題になったことの一つに「仮説は必要か。」ということがあった。即座に自分は答えた。「そんな『仮説』なんて必要ないです。そんなものなくても学校研究は進みます。」と。それで,そのときの医王山中学校は,研究の概要には「仮説」という言葉は出てこない。
そして,本番の発表大会の時である。医王山中学校の発表を終えて質疑応答の時だ。確か北海道からの参加者が質問した。
「この学校の研究には『仮説』がないようですが,なぜですか?」と。彼の質問の背後には「学校研究には『仮説』は必要であり,それのない学校研究は学校研究ではない。」という意図が見え見えだった。
こちらとしては「仮説は必要か。」ということで,職員会議で話はしていたが,詳しく踏み込んでまで,その理由については議論はしていなかった。しかし,その大会の質疑の場では端的に自分の考えを答えておいた。そこでは「『仮説』なんてくだらない。」と言いたかったし,そのときの金沢市の発表校の半分近くの学校が「仮説」を記述していて,それを引き合いに出して,「これなんて意味がないでしょ。」と言いたかったが,そこまで言うと同じ金沢市の学校に失礼と思い,言わなかったのだった。
だが,このような質問をされて,ますます「学校研究」における「仮説」のおかしさを感じることになったのだった。
ということで,その頃からずっと感じている違和感と,なぜ教員は「仮説」が好きなのかについて,ここでまとめて自分の考えを書いておこう。
1.「仮説」とは自然科学の用語である。それをなぜ学校研究という人文科学の分野に適用するのか。それはおかしいのではないか。
「仮説」とは物理や化学など自然科学の用語である。
つまり,実験によって検証可能な,まだ正しいとは確定していない科学的な事柄をさして,「仮説」と言っている。
これは実験によって検証ができ,その「仮説」が正しかったのか,正しくなかったのかが判断できる事柄である。
このような「仮説」という用語をなぜに学校研究という,人文科学の分野に適用するのか。これがよくわからない。
いろいろな人文科学の論文を読んだわけではないが,それには「仮説」なんて出てくるのだろうか?
もちろん執筆者の解釈は出てくるだろうが,それを「仮説」として,検証可能な内容として示すことがあるのだろうか?
人間(つまり児童生徒)あるいは人間社会(つまり学校)というような複雑な系に対して,「こうすれば,こうなるはずだ。」といった「仮説」を適用できるのだろうか?
ちなみに,「学校研究」によく見られる「仮説」の表現とは,たいていはこうなっている。
「……すれば,……となるであろう。」
この「となるであろう。」という表現を読むたびに,いつも違和感を感じるのである。まるで「風が吹けば,桶屋が儲かるであろう。」というのと同じだからである。
例を挙げておこう。
例1 数学的な考え方を育てる指導の工夫を取り入れることによって,既習の知識や技能を使うことのよさが分かり,考える楽しさを感じさせることにつながるであろう。
例2 授業において,学びの広がりや深まりが実感できるように,他とのつながりの手立てを工夫していく。それにより,生徒に他とのつながりを通して学びの意義や価値を感得させることができれば,「自分の学び」をさらに高めようとするであろう。
まあ,こんなのがよくある学校研究の研究仮説である。
「〜をすれば〜であろう」ということ自体が,自分にとってはうさんくさいのである。
2.「仮説」が正しかったのかどうかは,比較しないとわからないはずである。そんなことしている「学校研究」を見たことがない。
さらに言えば,この「仮説」が正しかったのかどうなのかは,「仮説」を実施していなかった学校と比較しなければならないのである。学校が無理ならば,「仮説」を実施していない学級と比較しなければならないのである。
この比較ではじめて「仮説」が正しかったのか,どうなのかがわかる。
こういう比較抜きで,年度末に「仮説」が正しかったなんて言っても,説得力を持たない。
3.「仮説」は間違っていてもいいはずである。だが,「学校研究」をやっている学校で,年度末のまとめにおいてこの「仮説」が間違っていたという学校は聞いたことがない。こんな「仮説」に意味はない。
これもいつも思うことである。
「仮説」ならば,検証をして,「この仮説は間違っていました。」と素直に言ってもいいではないか。
だが,そんな研究のまとめを見たことがない。どの学校もすべて,自分たちの仮説が正しかった,そして,この仮説でよかったという結論が述べられているのである。
「学校研究」における「仮説」とは「仮説」ではなく「結論」である。しかも,これでいいのだという思いこみである。ならば,初めから「仮説」などと言わないで,「こうすれば,こうなるはずだ。」という信念のもと,取り組みますと宣言した方が,よっぽどいいではないか。
4.検証可能であるということは,やっている「学校研究」は,子どもをモルモット扱いして,教師のために研究しているみたいではないか。今その場にいる子どもたちにとって,その「学校研究」はどういう意味を持つのだろうか。
これも仮説という言葉を聞いていつも思っていたことだ。
検証可能ということは,検証させてもらえる対象,すなわち児童生徒がいるはずだ。つまり,子どもは医学の実験でいうところのモルモットである。
薬が効くのか効かないのか,モルモットでの実験の話をよく耳にするが,本来仮説をもって実験するとはこういうことであろう。薬が効くのではないかと,モルモットでやってみるのである。本来子どものための学校研究なのに,まるでこれがうまくいったら,別の児童生徒にやってみましょうというようなやり方である。じゃ,今目の前の子どもはどうなんだと思ってしまう。
そして,モルモットの実験では,時には実験結果が芳しくなくて,この薬はダメだということになる。それが科学というものだ。
だが学校研究の仮説ではダメだったという話を聞いたことがない。
以上のことからいつも思うのは,「学校研究」で「仮説」なんてかっこいい言い方なんかしなくても,初めからうちの学校はこうしたらよくなると思うのでこうします!といった方がよっぽどいいのではないかと思うのである。
今,目の前にいる子どもたちのためには,こうすることが最善とは言えなくても次善の策だと思うので,こうします!といった方がよっぽどすっきりする。
「仮説」を確かめるために「学校研究」をするのではなくて,やりますと決めた「方法」を,信念を持って「実践」するのである。
教師は「実験家」ではなく「実践家」である。