明治後半から大正初期にかけて,金石は宿屋や遊郭が立ち並ぶ港町で,敦賀,三国をはじめ北海道や関東,関西からの旅人がこの港に上陸し,藩政時代から交通の要地であった。
直線道路であった金石往還(4.9km)は,金沢では国道である北陸街道以上の重要性を持っていた。
明治30年8月,資本金3万円の金石馬車鉄道が設立され,翌31年2月,上金石町−長田町間(4.8km)が開通,1頭引きの15?17人乗りの車両15両で営業を開始した。
大正3年5月,金石馬車鉄道は解散し,営業全部を金石電鉄に譲渡することを決議した。同年8月,資本金20万円の金石電気鉄道が設立され,金石−長田町間が電化営業を開始,県下では加南の温泉電軌に次いで電車が走った。
大正9年10月,長田から中橋まで軌道を延長して営業を始め,大正11年2月には資本金を50万円に増資,翌12年8月金石から大野港まで延長し,全線7.2kmの完成をみた。
次いで大正14年10月,金石町に「濤々園」(とうとうえん)を開設,料理業兼貸席を直営事業とし,演劇場,水族館を増設して北陸の「宝塚」を目指した。
その後も濤々園線0.4kmを開設したが,昭和13年9月からの戦時体制の強化で濤々園の余興は廃止された。
昭和18年6月の臨時株主総会で戦時統合による北陸鉄道への合併を決議し,濤々園もその姿を消した。
(『北陸鉄道50年史』による)