金沢桜百景

ひょうたん児童公園・瓢箪町公民館(ひょうたん  じどうこうえん・ひょうたんまち  こうみんかん)

 彦三町2丁目

−− 桜の仕切り線 −−

ひょうたん児童公園,道路から南向きに撮影

 金沢の桜の開花宣言から2日後,ちょっと曇り空のお天気です。
 彦三大通り方向を眺めています。

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ひょうたん児童公園,道路から北向きに撮影

 公民館のみならず,児童館,文化会館なども兼ねる建物が公園に隣接して建っています。
 今度は逆方向にお隣の長徳寺側から眺めています。
 この長徳寺は加賀の豪商,銭屋五兵衛の墓があるということで,下のように説明書きありました。

−− 桜の仕切り線 −−

ひょうたん児童公園

 ここには立派な石碑がありました。「朝倉雲洞院記念の碑」となっていました。
 公民館の方にお聞きすると,この公民館を建設するときにこの土地を快く譲ってくれた朝倉という人の父君のようです。

(2005-04-11撮影)

−− 桜の仕切り線 −−

★瓢箪町(ひょうたんまち)★
 藩政の中ごろまでこのあたりは塩屋町の一部で,この地に瓢箪をつくる者がいたから,また瓢箪を売る店があったことから,この名がついたといわれる。
(金沢市歴史のまちしるべによる)
★長徳寺の説明書き★
「銭屋五兵衛翁の菩提寺
 長徳寺はもと能美郡清水村(今の辰口町)にあったが,1614年頃金沢市鍛治町(今の東別院西門前)に移り,1902年に現在地へ移転した。銭屋家は代々当寺の門徒で,清水村に居住していたが,1660年頃宮腰(今の金石町)に移住した。1852年に五兵衛は牢死し,その遺骨は当寺の墓地に納骨されている。
 一代の商傑銭五の菩提寺である。
   加越能史談会」
★銭屋五兵衛(ぜにやごへえ)★
 1772〜1852
 加賀藩幕末期の豪商。海運業者。その先祖は越前朝倉氏の後裔と称する武士であったが,もともと金沢の外港宮腰に住する商人で,両替屋を営んだことから銭屋と称した。1826(文政9)年頃から海運業に乗り出し,商品流通経済の発達の機運に乗じて発展し,千石積以上の持船20隻,江戸・大坂をはじめ各地数十カ所に支店を設けた。
(北国出版社「石川県大百科事典」1975  からの抜粋)

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